2009年8月アーカイブ

 強者にいじめられている弱者にシンパシーを感じ,助けてあげようとするのが「判官びいき」。勝ち馬に乗ろうと,バンドワゴンの集団の中に積極的に参加しようとするのがバンドワゴン効果。選挙の度に必ずといっていいほどでてくる言葉だ。

 マスコミ各社が選挙の前に何度も投票行動予想を行う(これは法律に違反する行為のはずなのだが。。。)。優勢が伝えられると結果は逆になる(判官びいき」効果)こともあり,前回の衆議院選挙のように加速する場合もある(バンドワゴン効果)。

 今回の選挙を見ていると弱者は謙虚であらねばならないのに(「判官びいき」に必要なことは同情だ),どうもそのようには見えない。居直ったかのようなネガティブキャンペーンを繰り返す。安っぽいな,という印象を受ける。もちろんこれは個人的な印象であり,私自身はこれまで(選挙以外のところで),ネガティブキャンペーンの「威力」には圧倒されてきている。

 中選挙区制のときは当落線上にいる候補者(たいていは二人)の誰かに投票してきた。1票の効果は数倍に跳ね上がり,なおかつ「あたるかはずれるか」という開票結果発表後の楽しみもあった。

 さて明日の投票行動はどのような結果になるだろうか。愚痴と「口」撃のめだつ弱者に対して,それでも「判官びいき」がでてくるのか,あるいは前回同様なバンドワゴン効果がでてくるのだろうか。
 

 学会が重なり,京都に滞在している。宿は,四条通り西洞院。

 今回はポスター発表が3件,ワークショップが1件といそがしく,学会活動も30年となると会場の至る所で知り合いの方々とすれ違う。「ひさしぶり」「お元気ですか」「貫禄がつきましたね」などなど言い交わす。

 さて今回のプライベートな「お楽しみ」は京都老舗ラーメン屋,蕎麦屋めぐり。なかなかうまく時間がとれず,結局は3軒のみ。1軒は,広島にも進出しているTEN下一品。ここは京都での屋台がスタート。もちろん屋台はなくなっているし,どの店舗で食べてもセントラルキッチンで作られた同じスープを飲むことになる。まあ,それがわかっていてもスタートの場所で食べるとそれなりの感慨もある。

 次は三条堀川にあるSHIN福菜館。期待通りの「まずさ」。味が単調,層が薄く,廃材としての鶏ガラを荒っぽく煮出したスープに濃い口醤油をどばどばと注ぎ込んだだけ,という感じのスープ。今からラーメン屋を開業しようとする人が真似をしたら絶対に客はよりつかない,というような代物。ところが閉店間近の夜8時頃になっても客足は減らず,皆その「まずそうな」ラーメンを実に「おいしそうに」飲んでいる。

 道路を挟んだ向かいにあるコンビニで売っているカップ麺のスープの方がよほど「おいしい」だろう。にもかかわらずこのラーメン屋に客が集まり,何十年も繁盛をつづけている秘密はなんだろうか。

 理由はあれこれ考えられる。その一つは「あと味」。きわめてシンプルなスープであるだけに余計な(化学)調味料はつかっていない。カップ麺のスープや,はやりのチェーン店のスープを食べた後に経験する,べっとりと舌にまとわりつくようなあと味のわるさがない。すっきりとした食後感。消費者は複雑怪奇なスープに飲み疲れ,シンプル・イズ・ベストに回帰しているのかもしれない。

  蕎麦は数件ピックアップしていたが,結局,どこにもいけず,MATSU葉のにしん蕎麦で「妥協」する。こちらもなんてことのない代物。それでいて超有名店になっているのだから京都という町はおもしろい。


 はてさて,とんだ「発見」がひとつ。朝食を食べようとホテルの周辺を探索。喫茶店は幾つもあるのだが,米の飯が食べたい。これという店がなく,「KO町食堂」という全国展開をしているチェーン店に入る。ところが,なんと,朝から総菜の小皿がずらりとならんでいる。しかも京都ではおなじみの「おばんさい」のあれこれ。えぇえと驚きながら,4品もとってしまった。それが実に上品で,みごとな京都風の味付け。京都の料亭で出てくるものと十分に勝負ができるほどのレベル。これには驚いた。もちろん200-300円の一皿にコストのかかる食材は使われておらず,茄子や小松菜やシシトウなどそれぞれ野菜「だけ」の一品なのだが,負けてはいない。これは実にうれしい誤算。

 ところで一昨夜,昨夜とカレーが食べたくなり,インディアン(西木屋町六角角山崎町)へ向かった。両日とも開店時間に間に合わず,目的を果たせず。残念。

 夜は先斗町にある隠れ家的ショットバーで夜をすごす。バーテンダー歴40年のマスターがのんびりと経営している。この店舗もすでに18年とのこと。ともかく客が少なく,客筋がいい。このところ,京都にいくと必ずといっていいほど顔をだす。

 最後にtipをひとつ。市バス一日券は重宝する。市内は循環203という環状ラインに頻繁にバスが走っている。路線はそれを軸に複雑怪奇にひろがっているが,テキトーにのってテキトーに乗り換えればどこにでもすぐに行ける。京都市内はタクシーに乗っても1000円前後でどこにでも移動できる程度の狭さだが,こちらは乗り放題で500円。

 (追記)おみやげは,亀屋陸奥の松風ならず店名そのものの「陸奥」。これは四条河原町の高島屋で買うことができる。おなじ松風ながら,袋詰めの「陸奥」となると,気軽に食べることができる。堅いカステラというところだろうか。第2のみやげは四条烏丸から一本下り,昔ながらの店舗を構える田中長奈良漬店の「都の錦,味醂漬」。寛政元年(1789年)創業ということだから,220年の歴史ということになる。第3のみやげは,スーパーで買った大黒屋の串カツソースとフルーツソース。(ちなみに大黒屋は大阪,京都はツバメが知られている。散歩の途中で,ツバメのソースをずらりと並べて売っている店にも遭遇した。今調べてみると6種類でているようだ。京都から神戸長田あたりまでは実に多くのソースメーカーがある。業務用が中心で小売りに力を入れていないところも多いようだ。)

高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚』を実におもしろく読み終えた。ここまで理路整然に「攻めて」こられると,圧倒されるというか,「こわく」すらなってくる。著者とNisbettあたりが討論するとどうなるのだろうか。ご専門に近いN先生あたりのご意見をうかがいたいものだ。いずれにせよ,「文化」を口にする者にとっては必読の基礎文献と思う。

なかでも8章あたりで紹介されている「思考のバイアス」はわかりやすい。これまでモヤモヤとしていたことがらが収まるべき場所に収まっていくようなスッキリ感を味わえた。

その1:対応バイアス
 「根本的な帰属の誤り(英: Fundamental attribution error)とは、個人の行動を説明するにあたって、気質的または個性的な面を重視しすぎて、状況的な面を軽視しすぎる傾向を言う。対応バイアス(英: Correspondence bias)とも。。。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 われわれは,他者の行動の理由を推測するとき,外部要因を軽視し,その人の性格や能力といった内部特性を重視して判断する傾向(バイアス)をもつということ。

 ここからは応用問題(というか妄想レベルだが。。。):あるものを食べて「おいしい」と感じたとき,われわれは外部要因や自らの空腹状態といった内部要因を軽視し,その食べもの(モノ)の内部特性から「おいしさ」の理由を考えようとする。食べものの内部特性とは単に食品の物理化学的特性だけでなく,食材の希少性や調理者の著名度といったものも含まれる。。。われわれは,「おいしさ」の理由を,モノを摂取した状況からではなく,モノそのものの特性から考えようとしたがる。その結果,消費者,メーカー側ともども実体のない「おいしさ」を求め続け,お互いが「おいしさ」に振り回されることになる。

 どうだろうか。味の「素」という物質(グルタミンソーダ,MSG)がおいしさの「素」だという「ものの見方」は対応バイアスの現象と似ていないだろうか。(この発想は気に入っており,某学術誌から依頼を受けている小文に書こうかと思っている)

その2:確証バイアス
 例えば,バナナダイエットを実践する人がいるとしよう。そのような人は,バナナダイエットに批判的,懐疑的な人の意見はできるだけ耳にしないようにし,好意的,肯定的な意見や情報ばかりに注目する。自らの行為を正当化する為に,自分に都合のいい情報だけを取り入れようとする。このような現象を確証バイアスという。

 科学は,ある意味,確証バイアスとの「戦い」のような気がする。特に「実験系」といわれる領域は要注意だ。どうしても「実験=客観的=公平」と信じ込むことによって「真実の探求」というツボ(ドグマ,独善主義)にはまりやすい。もともと科学研究ほど流行に左右されやすいものはない。トレンド,fadsを生み出したパイオニア的研究者などは別にして,大半の研究者は「確証バイアスに支えられた集団主義」の中にいるような気がする。

(中略)

レイ・コンセプト
 lay concept, lay conceptionはまだまだ心理学の「重要」単語になっているとは思えない。上記したような思考のバイアスは個体レベルのものだ。それが集団レベルで共有されるものになり,個体識別を必要としないレベル(社会レベル,文化レベル)にまで引き上げられた<信念>をレイ・コンセプトという(ただしここでは勝手にそう定義する)。

 以前にも紹介した「コラーゲンたっぷりの食事をした翌朝は肌がつやつやになる」といった<信念>が代表的なものだ。「いわゆる健康食品」と呼ばれるモノの多くが,科学的根拠がない(弱い)にもかかわらず,多くの人々を引きつけてやまないのはこのようなlay conceptが支えとなっているからだろう。

 かくして新聞雑誌には「あやしげな」物質の広告が登場する。今朝の折り込みにも,通販で買う「グルコサミン」「コラーゲン」「マカ」「田七人参」(なんだこれは?),「イチョウ葉」「ウコン」「バナバ」(不明),「マタタビ」「エゾウコギ」「ガジュツ」(紫ウコン)が宣伝されていた。一日あたり,高いもので87円,安いものでも20円がかかる。あらためて消費行動を支えるココロの重みを感じる。

 まず結婚式には出席しない。親類縁者であっても断ることがある。今回,15年以上ぶりで出席をした。あらためて結婚式について考えてみたい。


 1. 突然に出現する「宗教」

 教会での「ウェディング」がはやりらしい。広島で人気という「聖R教会」を検索したが,結婚式の案内ばかりで,基本情報(まずは,カトリックなのかプロテスタントなのか)がでてこない。ここで略したR:ラフェエルは何者なのか。

 『トビト記』にでてくる天使であり,『トビト記』は旧約聖書の正典であり,新約聖書にはでてこない。ユダヤ教,キリスト教の世界では,ややあやしげ,中途半端な登場人物(?)といえる。

 教会側もこのような話しはどうでもいいらしい。「ウェディングプラン」のオンパレードだ。だからこそ,「若い二人」は,カトリックとプロテスタントの違いすらよくわからないまま,「教会」選びをするのだろう。

 なぜ突然にキリスト教徒の信じる「神」の前にでていこうとするのだろう?改心したのか?改宗したのか?その後も教会通いを続けるのか?

 私には,実に不誠実,不謹慎,宗教というものを茶化している行為に思える。(もちろん教会側にも問題は多い)。いずれにせよ,「人生の門出」を「嘘」から始めるべきではない。そのような「嘘つき人生」の始まりに立ち会いたくはない。

 「神前結婚」についても言いたいことは山ほどある。が,ここはひとまず。

 2. わけのわからない「宴」

 結婚式の宴が「お祭り」なのはわかる。それが,どうにもこうにも中途半端になる。一方には,洋食フルコース(らしきものだが。。。)のマナーが求められ,一方では,ビールを片手にテーブルを渡り歩く行為があたりまえのように見られる。実におちつかない。洋食フルコース(らしきもの。。。)を食べるなら,ビールなど飲みたくない。フィンガーボールは望めないも,パンのでてこないような(和洋折衷)コースなら,最初から「(なんでもあり)懐石(風)」の方がいいのではないか。

 仲人が神妙な顔つきで「二人の紹介」をしてほどなく,酔っぱらいが騒ぎ出し,おろおろし始める「両家のご両親」,格調高い詩吟にうっとりしていると,突然にカラオケが始まったりする。どこかのレベルの低い(とんでもなく低い)芸人のまねごとのような品位のない「暴露ばなし」などがでてきたりする。私などはもう,その場に存在していることの不幸を呪うしかない。

 人生の門出が,このようなわけのわからない「宴」で始まっていいものか。究極の混乱が人生のスタートにふさわしいのか。少なくともそのような「宴」にかかわりたくない。

 どんちゃん騒ぎを否定しているのではない。「お祭り」なら「お祭り」で,最初からそうすればいいのだと思う。


 3. なぜ無理をする

 「結婚」は人生最大の山場だろう(人によればそのような山場を何度も経験する)。しかし「結婚式」が人生最高の一日なのだろうか。仮にそうならば,結婚式の翌日からは坂道を転げ落ちる日々がまっているだけだ。スタートはゆっくりと,しっかりと足場を固め,徐々に走り出す。はてしなく続く,長い日々のスタートが結婚式であってほしい。

 世の親は(さらに本人たちも),結婚式が終わって始めて一安心,翌日は疲れ切ってふらふらとなりがちだ。おかしな話しだと思う。それでは「結婚式はようやくたどり着いた最終地点,終わりの一日,最後の晴れ舞台」になってしまう。ばかげている。

 仮に結婚式にでるなら,それは二人の「始まりの一日,ながい日々のスタートライン」に立ち会い,それを祝いたいからだ。「最後の晴れ舞台」を祝うつもりなどない。

 結婚には莫大な費用がかけられる。本人たちの収入のレベルでは不可能な費用だ。(やれ結納だ,新居だ,家具だ,新婚旅行はヨーロッパだ。。。)多くのケースは親の負担。その親もひーひー状態(もちろん,財産家の場合は別だ)。ばかげている。

 「始まりの一日」が「虚飾」でスタートしていいものか。「始まりの一日」が「嘘で固められた一日」でいいのか。どうしてそんなに「無理」をするのか。多くの親も問題がある。「親の見えだ」とはっきり宣言するひともいる。

 例えば400万円のご祝儀があつまるとする。それをそのまま二人に渡して,あとは知らんぷりをする,そのような親がいてもいいような気がする。


 4. ということで,

 婚姻届は二人の署名(捺印)と,証人二人の署名(捺印)があれば受理される。もちろん証人は親である必要はない(私の場合は,その時周りにいた知人の二人にお願いした。お一人はその後どんどんと「出世」され,今では,お会いすることもままならない「偉い」方になられてしまった。。。)。実に簡単だ。

 やはりこれからも,結婚式にでることはないと思う(今回15年以上ぶりで出席した結婚式が決して,このような「ひどい」ものであったのではない。実に慎重に計画され,練られたものだったと思う)。その場が「虚飾」「見え」「無理」「嘘」の場である可能性が高いからだ。終わりの一日である可能性が高く,始まりの一日でない可能性が高いからだ。どうふるまっていいのか分からない「宴」(特に騒音)が苦手であり,終始落ち着かなく,時にいらだち,腹立たしい思いをするからだ。つまり,きわめて不愉快な数時間となる可能性がたかいからだ。

 もし結婚式冒頭,上記した内容のスピーチをしてもいいのなら,是非私を呼んで下さい。

 


「死は人生の出来事ではない,死の直前に人生は終わるのであるから」(ヴィトゲンシュタイン)

自らの「死」を意識することはできない。もし意識できたらそれは「まだ死んでいない」ということなのだから。


「自分自身の死を経験することはできない」(シュナイドマン)

言い換えればこういうことになる。


「われわれは毎夜,死を経験している」(今田純雄)

毎夜ウトウトとしているうちに眠りにつく。このような「穏やかな死」を迎えられればいいなと思う。「死」とは他者の意識の中にしか存在しない。それ故に,「死後の儀式」は残った者にとって重要になる。

 私の父の場合,2回にわたり「儀式」をおこなった。一度は宗教色を一切廃し,近親者のみが集まった。花を好んだ父の棺には山ほどの花を飾った。2度目は神式の葬祭。祝詞には故人の生涯が綴られる。その為の資料を数日かけて用意し,祭りを取り仕切る宮司の方はさらに何日もかけてすばらしい祝詞を用意してくれた。一見質素であるが,実に中身のある,充実した,「ぜいたく」な祭りになった。それから10年が経つ。10年祭,50年祭,100年祭と節目を超えて,ようやくその「死」はカタチになる。

 最近は「死」に関して考えることがよくある。

今日のひと言

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PCを整理していたら昔担当していた「心理学概論」の授業用スライドがでてきた(最終:2003, 7, 14)。その頃,「授業の終わりに「今日のひと言」シリーズをしていた。そこから。。。


「愚者は教えたがり,賢者は学びたがる」(チェーホフ)

「学ぶ」「知る」ということは楽しいことだと思う.実のところ,私などは「教える」ことは好きでない.「お説教」を受けることはイヤだが,「お説教」することの方がもっとイヤ.「教育」はきらいだ。「教育者」としての適性なし...?


「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」(黒沢明)

ambivalenceという言葉を思い出す。これは,両面価値や両価感情と訳される。同一の対象に対して,相反する感情や態度を同時にもつ現象をさす。たとえば,愛情と憎しみ,尊敬と軽蔑などの感情を同時にもつこと。...通常,一方の面(多くは望ましくない面)が無意識下に抑圧され,その人の行動に影響を与えるとされる。....1959年モデルのPorshe 356 Roadster( Intermeccanica reproduced)を10数年乗っていた.2002年に最終的に手放した。ああゆう古典的クルマを気持ちよく乗るには,限りなく微妙,繊細な調節が随所に必要とされるが,同時に,力づくでハンマーをふるうような乱暴さ,おもいっきりのよさが必要.


「酔生夢死」(程子語録)

原文は「雖高才明智 膠於見聞 酔生夢死 不自覚也」。意味は,「優れた才能や英知(智恵)のある人物であっても,見たり聞いたりしたものばかりにとらわれていると(膠着している),酔生夢死のまま生きることになり,さとる(自ら目覚める)ということはない」というもの。

「程子」とは北宋の儒学者(兄弟)で,宇宙の本源は「理」であると考えていた(らしい).それが「道徳」「自然の法則」として現出すると考えていた(らしい).後の朱子学に,さらに日本の儒教の教えに影響を与えた思想(らしい).「真実」とは「理」,理解,合理という言葉はこのあたりに起源をもつもの(らしい).

と,「理」にこだわっているが,理由がある。心理の「理」のルーツであるからだ。修道の「道」にも通じる。(大学の公式説明はぜんぜん違うことを述べているが。。。)ちなみに,陽明学は,心即理という考え方をする.これなども,心理学の観点から見直すとおもしろいと思うのだが...

 しかし「酔生夢死」という言葉は甘美な響きがある。ついつい,「不自覚」でいい,「理」を悟らなくてもいい,生きているときは酔っぱらい続け,楽しい夢を見ながら人生を全うできればこれほどの幸せはないように思う。。。


「思うべし、人の身にやむことえずして営む所、第一に食ひ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事,この三には過ぎず.飢え、寒からず、雨風に侵されずして閑かに過ぐすを楽しみとす」(吉田兼好,『徒然草』第百二十三段)

生とは食に始まり食に終わると思う.


リッチでないのに、リッチな世界などわかりません  
ハッピーでないのに、ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに、「夢」をうることなどは・・・とても
嘘をついてもばれるものです
(杉山登志)

60,70年代に次々にヒット作を飛ばし、斬新な映像で、海外の賞も総ナメした、CMディレクターで、杉山登志さんという方がいたそうです。これは、その方が1973年に自殺した時の遺書。コピーライターのハシリでもあったらしく,嘘のような遺書です。柳美里(Yu/ Miri)さんの『ルージュ』のモチーフになっています。(角川書店,2001年,¥1200.-)ちなみにこの本は,化粧についても実におもしろい話しを展開している。

経済の高度成長期,日本はリッチになる「夢」を追い続けていきましたが,当然,その「夢」を与え続けてきた人たちがいます。広告業界の人たちです。はたして日本人はリッチな生活を手にしたのでしょうか。。。


「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」(CHANDLER, REYMOND /レイモンド・チャンドラー,清水俊二訳 早川1977 PLAYBACK (c)1958)

本書25章のベティとマーローの会話 「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」

原文では,"If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive." (in response to the question, "How can a hard man be so gentle?")「タフ」の正体は"hard"でした。

どうも私は,ambivalenceが好きなような(好きは嫌い,嫌いは好き?)


ゲイリー・ポール・ナブハン著ラン ダムハウス講談社 2005(2006,12頃のメモ)

あまり期待せずに読み始めたが,よい意味でタイトルと中身がずれていた。遺伝子研究をベースに,食物選択,食物嗜好の文化差を考えさせるというアップツーデイトな内容。進化論,栄養生理に詳しくない者としては読みづらいところもあり,また論の展開が下手だなぁと感じるところもあるが,総じて興味深く,一気に読ませた。

ソラマメとマラリヤとの関係は,実におもしろい。感染症の流行が,一定地域の住民を壊滅に近い状態に追いやってきたのだから,「進化」が1000年,2000年という短期間で進行してもおかしくはない。

トウガラシ嗜好とsuper tastersとの関係など,とっくに調べられているのかと思っていたが,まだ結論はでていないとのこと。地中海食の「秘密」もなるほどと感心させられる。やはりオリーブ油の大量摂取がポイントではないようだ。断食と膨大な種類の野草(野菜・ハーブ)がカギになっている模様。

糖尿病とファストフードとの関係も論じられている。ネィティブ・ハワイアンに対するワイアナエ・ダイエットの劇的な効果は,メタボリックシンドロームが問題視される日本人にとってはよきお手本になるだろう。

 食のことを調べていると,家族の問題から離れられない。個食や孤食が注目されるのも,「食の基本は家族で一緒に食べること」という価値観が前提にあるからだろう。

 家族の形態は1970年前後におおきく変貌した。核家族所帯が50%を超えたあたりからだ。それが最近,「普段は別々に住んでいるが食事は一緒に。近隣に住む親子の間でこんな<集食>というスタイルが広がっている」(日本経済新聞,09,08,03)とのこと。インビジブルファミリー(見えざる家族)ともいうらしい。

 たまたま耳にした業界話でも,近隣居住家族の相互扶助?(互恵?)はおおきなテーマになっているとのこと。なんせ,表面上は60歳代の夫婦二人暮らしである世帯が,なぜか大量の食品,飲料を購入しているとなると,気にはなるだろう。マーケットは,その対象を「個」から「(潜在的)大家族」へシフトすべきかどうか,慎重に様子をうかがっているというところだろうか。

 背景には,少子高齢化社会,団塊世代の高齢化,団塊ジュニア世代の子育て,男女共同参画社会といったものがある。世代の観点からみていくとわかりやすい。一方には核家族化を進行させた団塊世代の「反省」がある。他方には,「親」にすがりつづけたい団塊ジュニア世代がいる。

 記事のシメの文章(さすがプロ。うまい!):家族の生活時間が多様になるなかで個食化が進み、「家族団らん」は姿を消しつつあった。しかし今、形を変えてそれらは復活しているように見える。
 博報堂生活総合研究所(東京・港)の夏山明美上席研究員は「家族回帰が始まった」とみる。「不況や環境問題など生活不安が広がるなか、互いに助け合える家族が安心感を与える一種の『シェルター』のように受け止められているのではないか」
 食卓で言葉を交わし、家族のつながりを確認したい。「集食」はそんな親子の心象風景を映し出しているのかもしれない。
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 想像するに,潜在大家族は母系だろうと思う。3世代家族への回帰現象。私の持論である「食の安全の前の食の安心」。

 分散した家族を集合させる役割が「食」に与えられているようであり,改めて「食」機能の重さに気づかされる。

東京の下町

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 今回の宿も浅草。東京出張では中途半端な時間が生まれることが多く,その分,歩く時間が多くなる。今回の「散歩」コースは東浅草2丁目,清川2丁目あたり。通称「山谷」と呼ばれる地域だ。

 大阪の「釜」(今はあいりん地区と呼ばれる)が西の横綱なら,山谷は東の横綱,日本の高度経済を支え,今なお,安価な労働力(肉体労働者)を供給する重要基地である。山谷散策は今回が初めて。さてその印象は。。。

「釜」と比べるとまとまりがない。商店街も「いろは商店街」があることにはあるが,「釜」のジャンジャン横丁的なまとまりはない。飲食店が少ない。道路の至る所で,何人かの人が座り込み,一緒に缶ビールやワンカップを飲み合う光景をみたが,それらは自販機やコンビニで購入されたもののようだ。「釜」ではあたりまえのように存在する立ち飲み屋が見あたらない。

 うわさには聞いていたが,「住民」の老齢化がめだつ。南千住駅近くの道路沿い「ホテル」が一泊3500円(ほぼ統一されている)で泊まれるのに対して,少し離れた場所に残る,老朽化した木造「ホテル」では一泊が1500円ほどで泊まれる。

「空室あり」「自炊できます」「冷暖房完備」「カラーテレビつき」といった手書き文字を見ると,ついこちらの気持ちが引き締まる。一泊1500円の簡易宿で自炊生活を送る自分自身をつい想像してしまう。自己成就予言ではないが,本当にそのようなことが起こるのではないかと考えると,ゾッとする。

 浅草,深川,日本橋,亀有,葛飾,日暮里,上野と東京下町(根岸)は興味がつきない。さて今回のおみやげは,浅草橋鮒佐の佃煮,浅草亀十のどら焼きなど。

 今回の研究会では,フランス,ツールース大学発達心理学部の先生を招きお話を聞いた。

 フランスの大学の学費は無償であることはよく知られている。今では大学進学率も8割ほどになっているらしい。ところが。。。ツールース大学の場合,進級率は7割ほど。3割ほどが落第するらしい(それでも学費無償は続く)。最終的に卒業できるのは6割ほどではないか,ということだった。だから,初級のクラスの授業はやりにくいが高学年になっていくと「粒がそろう」のでやりやすくなる,との話し。

 ツールース大学(正確にはツールース第2大学)の心理学の専攻生は5000人ほどいるとのこと。5000人だ!!!!!それが,発達心理学部,社会心理学部,認知心理学部,臨床心理学部にわかれているとのこと。臨床心理学部は現在もめておりさらに二つに分かれる可能性があるとのこと。5000人の学生に対して,いわゆる終身職の教員は100人ほどしかいない。講義の多くは200-300名ほどの非終身雇用の教員(日本で言うなら,契約教員と非常勤教員)によっておこなわれているとのこと。今回お話を伺った先生は,終身職の准教授であるが,それでも120分を一コマとする授業を週に4-5コマしているとのこと。日本の90分一コマで換算すると週に7-8コマとなる。なかなか厳しい現状。

 本題の講演内容は,授乳形式の文化差とその背後にあるメカニズム(とうか諸要因)。子目線の日本の母と親目線のフランスの母の違いがおもしろい。日本の母親は,子の「自然な」発育を応援し,助けようとする。一方でフランスの母親は,子が大人社会の仲間入りができるように「しつける」。親目線だ。

 おもしろい比喩をつかわれた。日本は子どもを性善説的に受け入れるのに対してフランス(さらにアメリカ)は性悪説で理解しようとしている。日本の母親の多くは子を善なる存在とみなし,その善なる部分を育み育てようとする。多くのフランスの母親にとって,子どもとは,ほっておくとメチャクチャになる存在だ。それ故に子の「大人化」,「文化化」に力をいれる。

 WHOの勧告が効をなしたのか,ヨーロッパでも母乳授乳の比率が高まりつつある。フランスでもかつては20%に満たなかったのが,今では50%を超えるようになっている。逆にいえば人工乳で育てる親がまだ40%以上いるということだ。40%以上の母親は,出産後ただの一度も子に母乳を与えていない。日本では考えられないことだ(実際の調査データもそのことを示している)。さらに断乳(母乳を与えている母親が母乳授乳を停止し,人工乳授乳に切り替えること)の時期も早く,3-4ヶ月齢あたりで行うケースが多いとのこと。さらにさらに断乳はほとんど1-2週間で完了するらしい。(これについては日本の多くの関係者らがおどろいていた。)

 フランスのお母さんは,(日本人的感性からすると)毅然たる態度で断乳をおこなう。たぶん罪悪感などまったくない。日本的なウェットな,子目線になった過剰な感情移入などない。子が泣けばしかり,それでも泣けばほっておく。実にドライ(日本人から見れば)。

 はてさて,人工乳授乳にこだわる親の理由がおもしろい。発表されたデータは日仏米の三カ国比較で,人口地理学的変数は統制されている。「母乳授乳が苦痛」を選択した日本人母はゼロ,それに対してフランス,アメリカでは10%ほどの母親が選択している。「苦痛」と感じる中身がおもしろい。「乳房は自分のものであり,子に与えたくない」「母乳を与えるという行為は動物的であり,人間的とはおもえない」という理由がでてくる。日本でも出産,母乳授乳をすれば乳房が変形するのがいやだ,という話しを聞いたことがある(今回の調査ではゼロであったが)。

 受精,妊娠,出産,授乳はきわめて生物的(動物的)な営みである。それをいかに「文化的」(一般的には「人間的」)な行為と昇華するかに文化という要因が作用する。フランスと日本,両者の違いが実におもしろい。