思考のバイアス:頭の中の「罠」(作成中)

| コメント(2) | トラックバック(0)

高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚』を実におもしろく読み終えた。ここまで理路整然に「攻めて」こられると,圧倒されるというか,「こわく」すらなってくる。著者とNisbettあたりが討論するとどうなるのだろうか。ご専門に近いN先生あたりのご意見をうかがいたいものだ。いずれにせよ,「文化」を口にする者にとっては必読の基礎文献と思う。

なかでも8章あたりで紹介されている「思考のバイアス」はわかりやすい。これまでモヤモヤとしていたことがらが収まるべき場所に収まっていくようなスッキリ感を味わえた。

その1:対応バイアス
 「根本的な帰属の誤り(英: Fundamental attribution error)とは、個人の行動を説明するにあたって、気質的または個性的な面を重視しすぎて、状況的な面を軽視しすぎる傾向を言う。対応バイアス(英: Correspondence bias)とも。。。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 われわれは,他者の行動の理由を推測するとき,外部要因を軽視し,その人の性格や能力といった内部特性を重視して判断する傾向(バイアス)をもつということ。

 ここからは応用問題(というか妄想レベルだが。。。):あるものを食べて「おいしい」と感じたとき,われわれは外部要因や自らの空腹状態といった内部要因を軽視し,その食べもの(モノ)の内部特性から「おいしさ」の理由を考えようとする。食べものの内部特性とは単に食品の物理化学的特性だけでなく,食材の希少性や調理者の著名度といったものも含まれる。。。われわれは,「おいしさ」の理由を,モノを摂取した状況からではなく,モノそのものの特性から考えようとしたがる。その結果,消費者,メーカー側ともども実体のない「おいしさ」を求め続け,お互いが「おいしさ」に振り回されることになる。

 どうだろうか。味の「素」という物質(グルタミンソーダ,MSG)がおいしさの「素」だという「ものの見方」は対応バイアスの現象と似ていないだろうか。(この発想は気に入っており,某学術誌から依頼を受けている小文に書こうかと思っている)

その2:確証バイアス
 例えば,バナナダイエットを実践する人がいるとしよう。そのような人は,バナナダイエットに批判的,懐疑的な人の意見はできるだけ耳にしないようにし,好意的,肯定的な意見や情報ばかりに注目する。自らの行為を正当化する為に,自分に都合のいい情報だけを取り入れようとする。このような現象を確証バイアスという。

 科学は,ある意味,確証バイアスとの「戦い」のような気がする。特に「実験系」といわれる領域は要注意だ。どうしても「実験=客観的=公平」と信じ込むことによって「真実の探求」というツボ(ドグマ,独善主義)にはまりやすい。もともと科学研究ほど流行に左右されやすいものはない。トレンド,fadsを生み出したパイオニア的研究者などは別にして,大半の研究者は「確証バイアスに支えられた集団主義」の中にいるような気がする。

(中略)

レイ・コンセプト
 lay concept, lay conceptionはまだまだ心理学の「重要」単語になっているとは思えない。上記したような思考のバイアスは個体レベルのものだ。それが集団レベルで共有されるものになり,個体識別を必要としないレベル(社会レベル,文化レベル)にまで引き上げられた<信念>をレイ・コンセプトという(ただしここでは勝手にそう定義する)。

 以前にも紹介した「コラーゲンたっぷりの食事をした翌朝は肌がつやつやになる」といった<信念>が代表的なものだ。「いわゆる健康食品」と呼ばれるモノの多くが,科学的根拠がない(弱い)にもかかわらず,多くの人々を引きつけてやまないのはこのようなlay conceptが支えとなっているからだろう。

 かくして新聞雑誌には「あやしげな」物質の広告が登場する。今朝の折り込みにも,通販で買う「グルコサミン」「コラーゲン」「マカ」「田七人参」(なんだこれは?),「イチョウ葉」「ウコン」「バナバ」(不明),「マタタビ」「エゾウコギ」「ガジュツ」(紫ウコン)が宣伝されていた。一日あたり,高いもので87円,安いものでも20円がかかる。あらためて消費行動を支えるココロの重みを感じる。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.shudo-psy.net/manage/mt-tb.cgi/335

コメント(2)

『「集団主義」という錯覚』は持っていますが、実は「つまみ食い」状態で全体は読んでいません。高野先生らしく、舌鋒鋭い語り口が心地よい本ですね。「基本的な帰属の誤り」は、「基本的」でも何でもなく、東洋人には起こらない、とかいう文化心理学者の主張を聞いたこともあります。

僕は、「文化の違いは、利得構造の違い」としてとらえる考え方にどっぷりつかっています。例えば山岸先生の研究は、文化を扱う場合、文化差そのものに着目するのではなく「どういう状況を実験室に再現すれば、文化差を消し去ることができるか」という点にあります。文化差を消し去る要因が見つかったとすれば、それこそが文化の違いを生んでいる「犯人」だということになります。つまり、文化の違いを論じるときに重要なのは状況であり、いったん文化が成立してしまえば、その文化は自己拘束的に働くので、変容しにくい (例えば左側通行が一度成立すれば、左側を通行することが適応的な行動となる)。

だから、文化の研究をする際には、独立変数とすべきは「文化」ではなく、文化差を生み出している「隠れた利得構造」なのだ、と思います。

 『「集団主義」という錯覚』の中でも(当然)山岸先生の研究は紹介されています。ただ,上記N先生のコメントほど,すっきりとわかりやすいものではなかったですね。きちんとfollowしていない当方とすれば,さすが「お膝元」,わかりやすい説明に納得。ありがとうございました。
 院生の頃にB.F.Skinnerの影響をつよく受けた身からすると,「状況の力」と「強化随伴性」の違いが今ひとつすっきりとしない。Skinner自身も「文化」には相当言及していました(はず)。慶応のS先生あたりならこの違いをわかりやすく(えぇ,そんなに簡単に言い切っていいの?と驚くほど)教えてくれるかもしれません。「隠れた利得構造」を「発見」しようとすることと,「隠れた強化随伴性」を「発見」しようとすることはきわめて類似した行為のように思えますが,いかがでしょうか。(違いの一つは,文化的強化随伴性は理論的構築物のイキをでていないが,「利得構造」については実証的研究がすすめられていると言う点と思いますが。。。)
 「集団主義」という錯覚」の中で「錯覚」に陥っていると(事実上)名指しされている京大のK先生の文章なども読み直してみたのですが,これはこれでわかりやすい文章,内容でした。どうも3者(というか2者かな)のズレがじわりじわりと違和感を覚えさせます。(わたしの勉強不足と理解力のなさが原因なのですが。。)
 P. Rozinなどは一貫してpreadaptationをkey wordに,cultural evolutionについて論じています。disgustしかりpleasureしかり。あまり親切とはいえない抽象的な議論が目につき,また彼自身がうまく説明できていない部分(puzzles)もおおく,わかりにくい話しといえばわかりにくいのですが((わたしの勉強不足と理解力のなさが再び原因か。。。)。

コメントする