「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書,2007)の大ヒット以来あちこちでひっぱりだこの福岡伸一氏による「生命と食」(岩波ブックレット,2008)を読んだ。話しは後半ぶれるのだが,骨子は比較的簡単。シェーンハイマーの実験とそこで発見された「動的平衡」(と彼が名付けた)という現象を紹介し,そこから食の意味について考えるという内容だ。最後のあたりできわめてわかりやすい例を引いているので,そこの部分を引用する。
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生命は,絶え間なく分解と合成を繰り返す,ダイナミズムの中にあります。鴨長明は『方丈記』に「ゆく河のながれは,絶えずして,しかももとの水にあらず」と書きましたが,まさに生命は川のような流れの中にあり,この流れを止めないために,私たちは食べ続けなければなりません。(p.60-61)
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以前から気にはなっていたを少し調べてみることにした。シェーンハイマーが本当に「動的平衡」ということを述べていたのだろうか。また,さも著者がこの「埋もれていた真実」を発見したかのような記述の仕方をしているのだが,果たしてどうなんだろう。
ネットの「海」を泳ぎ出すと,次から次へと私の問いへの回答がでてくる。
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「生物と無生物のあいだ」においては、個々の記述は正しいものだとしても、実際の学問の姿が公平な態度で伝えられていない。福岡は、シェーンハイマーの埋もれた発見を自分が再評価した、というようなストーリーを作り上げるために、現実を歪めて描き出してしまっているのである。(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2_065a.html, 福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)より)
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私は、福岡が「動的平衡」という言葉をシェーンハイマーが生み出したものとしては書いていたこと、シェーンハイマーに対して科学界から忘れ去られた「悲劇の天才」という劇化を行っていること、を指摘した。/ このことも思い合わせると、福岡が対象を描くときの公平さに疑いの目を向けざるを得ない。/ 率直に言って、私は福岡の誠実さを信じることができないのである。(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/vs_5_9a12.html, 福岡伸一 vs. ダーウィニズム(5)より)
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この本読んでて私が一番許せなかったことというのは、「動的平衡」とかの言葉をまるで新鮮な概念でもあるかのように言っておきながら、50年前の、量子力学完成直後に現れたデルブリュックやボーア、ウィーナー、そして理論生物学において非常に重要な仕事をした(そして52年の二重らせん発見直後、不自然死する)数学者であるチューリングとフォン・ノイマンのことを、一切どこにも書いていないということ。どこ探しても、チューリング・モデル、や、反応拡散系、自己増殖オートマトンの話、まったく無視されてる。(http://elangel.exblog.jp/9912630/, 「生物と無生物のあいだ」・酷評 2/2より)
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基礎生物学というのだろうか理論生物学というべきなのだろうか。そこからは,すさまじい批判の矢が放たれている。少し長い,つぎのような記事もある。
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しかし、いくらかでも熱力学や化学の知識を持つものなら、福岡の「平衡」という言葉の使い方に疑問を持つだろう。
熱力学的な意味での「平衡」とは何か。それは、エントロピーが最大に達した状態、熱力学的な駆動力がゼロの状態である。これは、生物で言えば死んだ状態のことである。これでは、福岡の「動的平衡」とは合わないだろう。
それでは、化学的な意味での「平衡」とは何か。化学では、化学平衡のことを動的平衡と呼ぶ場合がある。化学平衡とは、反応は起こり続けているが、進行する反応と逆向きの反応とがまったく同じ速度で起こっているため、系の化学的性質に変化が起こらない状態である。つまり常に動いていながら、どこにも変化していかないという状態である。(*1)これは一見福岡の「動的平衡」と同じものに思えるが、落ち着いて考えれば似て非なるものだと分かる。生体内における化学反応は、多くの場合一方向に進んでいるのであり、状態が変わらないように見えるのは、物質が外から流れ込んでくるからである。このような状態は、通常、「平衡」とは呼ばず、「定常状態」という。
(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2_065a.html, 福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)より)
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この匿名ブログの書き手によると「動的平衡」は「定常状態」という表現でかまわないようだ。
さてここで思いっきり福岡氏に加担して彼のもっともいいたいことを私風にいうと,「生物は機械論的説明では説明しきれない。なぜなら,機械そのものが常に作り替えられているのだから。その作り替えるという作業は機械(分子)では説明されえない『神秘』の力,『神』の力というものを仮定せざるを得ない」となるが,少々強引,あるいは無茶苦茶だろうか?(氏は,無論,そこまでは記していない)。
「食べ物があなた自身を造る」という部分についての反論,批判は発見できなかった。
結局は,生気論者ということなのだろう。分子生物学という「仮面」に相当まどわされたが。。。