心理学雑記の最近のブログ記事

 昨年一年間,月一回ほどのペースで新聞の特集記事に短いコメントを書いていた。日本の食の変化を追いかけるという特集記事。限られた期間(日数)で,限られた文字数で,編集担当の方(ということは読者)を納得させ,当然のことながら自分自身も納得できるコメントを書くという経験は,それなりにおもしろいものであった。

 本体である特集記事の内容はしっかりとしており,いい企画だったなぁと振り返っていた。

 それが,なんと,とある出版社から出版されるとのニュース。
 新聞記事(さらにそのコメントとなると。。。)のほとんどは消えていく。雑誌同様の,読み捨ての世界だ。これが「残る」となるとうれしい。6月には書店に並ぶらしい。

 (きっと)いい本です。その時は宣伝をします。

 ちなみに「心理学検定・キーワード集(仮題)」もその頃にでる予定。すでに校正に入っているが,私の担当箇所については,そこそこのデキかと思っている(60点は欲しいな)。全体のことはまだわからないが,しっかりとしたものになっている気配がする(編集担当の人の様子から推察)。これも,いい本になるかもしれない。

 ということで6月になれば,わたしが(部分的に)からんだ新書と心理学テキストが出る予定です。どうぞお楽しみに。

 *4/21: 読み直していると誤解されそうだったので,本文を一部修正。出版される本体部分は特集記事であり,コメントはそれにつけ加わる一部分。しかもコメント執筆者は複数いるのだから,「あれ,こんなところに名前が出ている」という程度になるはず。

JPN47NEWS(共同通信: http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030701000438.html)に次のような記事が掲載されていた。タイトルは「抗うつ薬で暴力など42件 厚労省が因果関係調査」
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 抗うつ薬の「パキシル」など4種類のSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)を服用した患者に、他人に暴力をふるうなど攻撃性が高まる症状が表れたとの報告が2004年から昨年秋までに計42件、医薬品医療機器総合機構に寄せられ、厚生労働省は7日までに、因果関係の調査を始めた。
 メーカー側に見解を求めるとともに近く専門家の意見も聞き、攻撃性についての注意書きを盛り込む方向で、添付文書の改訂を指示することを検討する。
 厚労省によると、報告があったのはパキシル、ルボックス、デプロメール、ジェイゾロフトの4社4製品。42件のうち「人を殺したくなった」など他人を傷つける恐れのある言動をしたり、実際に暴力をふるったりした症例が19件。残る23件も、興奮して落ち着きがなくなるなどの症状が表れたという。
 因果関係は不明だが、うつ病を併発した認知症の70代の男性がパキシル服用後に妻を殺害するなど、刑事事件に発展したケースもあった。
 SSRIは、脳内の神経伝達物質セロトニンの濃度を調節して神経の活動を高める薬。三環系と呼ばれる従来の抗うつ薬よりも副作用が少なく、うつ病治療に広く使われており、国内でも推定で100万人以上が使用しているとみられる。
 厚労省は「うつ病以外の患者にも使われていなかったかなど慎重に調べたい」としている。
2009/03/07 12:31 【共同通信】
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 感情研究者にとっては,セトロニンと攻撃行動との関係は,試験問題にもでてくるほど,基本的なことがら。中枢薬の開発,申請,認可にはとんでもない月日と手続きが必要と聞く。効用はむろんだが安全性の試験が繰り返し行われる。それでいてこのようなことが今頃になってでてくるのだから驚く。

 ちなみに,Yahooヘルスケアでパキシル(商品名)をみると,「。。。この薬はとくにセロトニンの受容体(脳神経細胞への受け入れ口)を特異的,選択的に遮断することによってセロトニンの取り込みを阻害して,うつの症状やパニック障害に改善効果を示します。」(http://health.yahoo.co.jp/medicine/2/1179041F1025/)とある。

 副作用としては「一般的な副作用としては。。。さく乱,幻覚,せん妄,けいれん,重い肝障害などもあります。。。また24歳以下の人では,治療の効果と自殺企図の危険性をよく考慮の上で使用が決められます。」とある。

 自殺とは自分自身に対する最大の攻撃行動である。

 うつの改善が改善にとどまらず攻撃(他者あるいは自己への身体に危害を与える)にまで発展するというリスク。そのようなリスクがあることを知っていながら,それを投薬する医師(投薬せざる得ない医師。。。)。「臨床」とは大変な世界だと思う。

 感情は進化の長い淘汰の産物であると同時に,文化により育まれ作られたきたものである。

 といったフレーズはもっともらしいが,結局のところ「よくわかりません。。。」ということなのだろう。

 しかし今回はよく勉強した。「感情」「emotion」に関する本で取り寄せたものは10万円近くになる(Amazonをうらむ。。。)。経費処理のできる「資料費」はとっくにパンクしており,確定申告に経費として申告しようかと悩む。

 タヒチではsadness(悲しみ)に対応する言葉はないが,怒り(anger)に対応する言葉は46もあるとか,アフリカや中南米の調査ではどうも道徳逸脱に感情が喚起させにくいとか,実に「雑多な」知識が増えた(すぐに忘れそうだが。。。)。

 今回,改めて研究者らの「研究」に対する情熱を感じた。James-Lange説の実証に研究人生を費やした人も(何人も)いるらしい。

 特に「感情」は,生理,神経科学,進化論,解剖学(顔面筋),発達(agingを含む),文化,社会,臨床とおおよそあらゆる心理学領域とからんでいる。記憶,認知,知覚しかり。心理学を離れれば文化人類学やそこでの理論(社会構成主義)などもある。それでいて,emotionを日本語でひと言でいいあわすことができない(感情,情動,情緒,気持ち,フィーリングとさまざまな言い方がある)。共通点があるとすれば,どこの領域の研究者もすさまじい情熱をかけてデータをとり,インタビューをし,考え,理論を展開していることだろう。

 研究活動をスポーツにたとえる人がいる。体力勝負だと。スポーツは寝食を忘れるわけにはいかないが,研究活動ではおおいにありうる。気づいたら50年間コレばかりしていました,という研究者はめずらしくない。

 はたして情熱はどこへ向かうのだろう。ふとそんなことを考える。

 * これから続く「メモ・感情研究の難しさ」は書き手のメモ目的です。読まれることを前提としたものではありません*

 昨年の11月あたりから,感情に関する「お勉強」がエンエンと続いている。老眼と花粉症の為に細かな文字が読みづらい。

{ 追記2/4 }感情は夢体験と似ている(豊富な夢体験については個人差が大きい。それ自身まだ解明されていない,はず)。目覚めた後に(感情表出の後に),夢(感情)の内容(質,強度など)を追認識していく。

 *emotion=感情?

 Damasio( Descartes' Error)は,"feelings of emotions"という表現を用いている(p.143)。翻訳書では,「情動感情」という表現があるからこの用語を指しているのだろう。

 LeDoux( The emotional brain)の翻訳でも,「意識的な情動経験」という表現がでてくる。(ex., p. 60)。

 Ekman(2003)のタイトルは,Emotion revealed: Understanding faces and feelings
これなど直訳すれば「暴かれた(解明された)感情(情動):顔と情感(感情)を理解する」となる。翻訳本は「顔は口ほどに嘘をつく」と原タイトルからおおきく離れている。emotion領域でこれほどfeelingsが前面に出てくるとどうすればいいのか分からなくなる。

 emotion=情動,feeling=感情でいくべきか?

 やっかいなのは日本の感情研究のパイオニアである松山(1993)が,日本感情心理学会の創設に際して寄稿した論文において,emotion=感情としていることだ。これではfeelings of emotionsは,感情感情かせいぜい感情情感になってしまう。

 日本語では,感情体験という表現もある。

 emotionsは,必ずしも意識的反応ではない。クルマにひかれそうになったときは,驚く前に身体が動いている。ぞっとする(恐怖)をあとから体験することになる。feelingsは,あくまで意識的,主観的体験に用いる用語だ。

 これまではemotionをある時は情動といい,ある時は感情という,といった日本独自の使い分けがなされてきた(情緒という言葉もある)。これは弊害だ,と思って「感情」統合化を主張してきたが,そうも行かない様子。

 感情=feelings
 情動=emotions
 気分=moods
情動感情=feelings of emotions

 とするか,あるいは

 感情=emotions
感情体験=feelings, feelings of emotions
気分=moods

  とするか。。。。

{ 追記:090215 }
 feelingをフィーリング,emotionを情動とするケース(余語)
 feelingを気持ち,emotionを感情とするケース(斉藤)
 もあり。

 Kalatを読んでいくと,やはりfeel emotionという表現が出てくる(p.97)
実にややこしい。。。

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 嫌悪の対象が自己に向かうと自己嫌悪が生じる。(多くのアメリカ人は認めたがらないようだが。。。)
 では,自己軽蔑はどうだろうか。
 自己怒りは?
 やはり,怒り,軽蔑,嫌悪は対象が外部に存在する感情といえよう。

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 「なにをそんなに怒っているのか」と言われて始めて,自分が怒っていることに気づくことがある。気づく前がemotion,気づいてから後がfeeling ?

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第8話:なんでも条件付けられるという「神話」

 JB ワトソン,ロザリー,アルバート坊やという心理学における大「神話」的人物の登場で締めくくられる。ワトソンが5万坪の大農園で生涯を終えたという話しまでは知らなかったが,多くはすでに知っている話しであった。これは私自身が受けてきた教育環境の「恩恵」だ。ワトソン自身が登場する条件付けの記録映画など,アメリカで発見されてさほど間をおかず,先生(当時の私の)が入手し,学生に見せてくれた。

 ワトソンの数少ない弟子の一人(ラシュリーもお弟子さんにあたることは知らなかった)であるC リクターは,私の敬愛するロジン先生が師と仰ぐ人の一人である。ということで私もワトソンの遠縁者?

 しかしワトソンとはすごい人だと改めて思う。APA会長就任演説のあまりにも有名な,あの威勢のいい啖呵の切り方。心理学との縁の切り方のいさぎよさ。その後の人生の成功談。まちがいなく一本の映画になる。

 ちなみにワトソンは育児書の執筆者としても知られている。ワトソン,スポック,ボウルビーという流れは心理学の流れでもある,という見方はおもしろい。

 

終章:心理学の過去は長いが歴史は短い,という「神話」

 つい笑ってしまった。私自身が30年前(始めて「心理学」の授業を担当した院生の頃)から使っているフレーズが「心理学の過去は長いが歴史は短い」である。エビングハウスがこの有名な一句を使用したのは1908年という。なんと100年前ではないか。

 心理学の授業は「古典芸能」化しているのかもしれない。

 日本の心理学の歴史にとって記念碑的といえる出版物は,平凡社の「心理学事典」である。百科事典がブームという時代背景もあったのだろうが,よく売れた(今も売られている)。さらに,東大出版会が2度にわたり講義と研究法のシリーズ本を出した。「現代基礎心理学」のシリーズは私の世代の教科書でもあった。

 平凡社の「心理学事典」,東大出版会の「現代基礎心理学」シリーズ,さらに有斐閣の「心理学の基礎知識」は(当時の)日本の心理学の全体をカバーする定本といえるものであった。

 はたして現代はどうだろうか。これを読んでおけば大丈夫と信頼される書物はでているのだろうか。心理学「神話」批判は批判として,それらを足下にもよせつけない「確固たる」知識体系の提供されていないことが本当の問題ではないだろうか。

 

第3話:サバンナ住民に錯視はおこらないという「神話」

 アフリカのサバンナに生きる人々に幾何学的錯視はみられないらしい,という話しをこれまでも何度がきいていた。えぇ。。。まさか。。。と,そのままにしていた「神話」にこちんと答えてくれている。この章では,言語相対仮説,言語・文化相対仮説にいきすぎらしという回答を得ることができる。ハドソンの遠近図形など「こんな下手クソな絵に遠近を感じる方がどうかしている」(p.82)と,実に小気味よく切り捨てている。そうなんだ,そうなんだ,よくぞ言い切ってくれたと拍手をしたくなる。

第4話:双生児研究という「神話」
 
 双生児研究を全否定するものではない。発達心理学の古典的「英雄」であるバートのデータねつ造スキャンダルからはじめて,遺伝-環境論争,双生児研究がもつ「危険」に話しを広げていく。この章も,サスペンスタッチで一気に読ませる。

第5話:赤ちゃんを左胸で抱くのは心音という「神話」

 なぜ多くの人は赤ちゃんを左胸で抱くのか,それは心音を聞く(聞かす)ためというのは常識といえる見解であった。そんな簡単な話ではないという展開。実に説得的。なるほど側性化という枠組みで考えるべきなのだと納得させられる。

第6話:チンパンジーと会話ができるという「神話」

 クレーバー・ハンス(とんでもない賢い馬)の話しから始まる。テラスが育てたチンパンジー,ニム・チンプスキーの話しがつづく。実験者効果という比較的陳腐で一般的な話しの枠組みなのだが,文章がうまく,展開もじつに練られており,一気に読ませる。プレマック,アイ,アユムあたりにも若干の批判(皮肉)がでてくるかなと期待していたのだが(こわごわと。。。),何事もなく終わる。

 実はプレマックと私は奇妙な接点がある(霊長研とは全く関係のないところで)。91年にペンシルベニア大学で在外研究を始めたときに,この部屋を使ってくださいとビルの一室を与えられた。退官した教授が使用していた部屋で今は誰も使っていないから,というのがその理由だった。いろいろなものがそのままで残っている。お嬢さんとおぼしい女性の新聞切り抜きが,机のまわりに貼り付けてあったりする。なんとそれがプレマックの大学内でのオフィスだったのだ。彼は大学にはほとんど来ずに,外部にあった研究施設にいたということであった。私はまったく期せずして彼と入れ違いになっていた。

第7話:賢い人を食べると賢くなると言う「神話」

 マコーネルのプラナリアを使った学習実験はあまりにも有名。学習して「賢く」なったプラナリアを別のプラナリアに食べさせると,何も勉強していないにかかわらず「賢く」なるのだ!それなら,賢者を切り刻み食べ尽くしていくと,どんどんと賢くなるのか?

 私が院生の時に使っていた教科書の一つはマコーネルの翻訳ではなかったかと思う(さだかではない)。不勉強で,プラナリアでも学習するのか,すごいな,それでどうだというんだ,という程度の感想しか残っていない。ここでは,記憶が脳全体に「偏在」するのか,脳の局所に「偏在」するものなのか,さらに記憶内容は物質として残るものなのかといったビッグな話しの枠組みを提起している。プラナリアの学習実験をそういった枠組みでとらえると,実におおきなはなしとなる。

 どこかで聞いた話し。。。(単にこちらの健忘が進行しているだけかもしれないが),マコーネルはカシジンスキーのしくんだ爆弾によって失聴し,その5年後(1990)に心臓麻痺でなくなったとのこと。

 鈴木光太郎さんの「オオカミ少女はいなかった」(新曜社)を読み始める。
 8つの「心理学神話」をとりあげている。まだ読み始めたところだが,実におもしろい。

 まずは,「オオカミに育てられた子」という心理学神話をこてんぱんにやっつける。多少まじめな心理学者ならば誰もがうさんくさいと思っていた話しであり,また多くのものが,こういう展開でズバッと切り捨ててみたいと一度は思ったはずだ。わたしの場合は,学生の頃に「あれは自閉症の子の話しだよ」と教えられていたので,うさんくささに毒されずに助かった。(とはいえ,今では,なんと,倫理の教科書にも登場しているらしい)

 なにしろあやしげな「心理学」がさまよっている。心理学を知らずに平然と心理学の話しをする教員もおおい(たぶん,この大学内でも。。。もちろん,心理学専攻外で)。自分の信念,信条を語るのは自由だが,心理学の看板を利用して「心理学」を似非学問と流布するようなことだけはしてほしくないと思う。

 第2話:映画上映中に1/3000秒のタイミングで「ポップコーンを食べよ」というメッセージを流すとポップコーンが飛躍的に売り上げを伸ばした!というサブリミナル神話。明示的なコマーシャルでも困難なことが,どうして閾下メッセージとなると信じられない力を発揮するのか!? めちゃくちゃな「神話」である。

 この章では,フロイドの「無意識」説とからめて,なぜこのようなばかげた「神話」がひろまったのかをみごとに説明している。いうならばフロイド「無意識」説の脅威,怖れが背後にあるという説明。わたしなども,ついつい「無意識」ということばを(ついつい便利なものだから)使ってしまう。ちょっと注意しないといけないなと反省。

 ちなみにワンシンクという研究者はポップコーンをより多く食べさせる実験に成功している。方法は簡単。ラージサイズの入れ物を使うとたっぷりと食べてくれる,というだけの話し。「真実」はあまりにも簡単であり,おもしみも少ない。

 ということで,第3話以降はいずれまた。

 「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書,2007)の大ヒット以来あちこちでひっぱりだこの福岡伸一氏による「生命と食」(岩波ブックレット,2008)を読んだ。話しは後半ぶれるのだが,骨子は比較的簡単。シェーンハイマーの実験とそこで発見された「動的平衡」(と彼が名付けた)という現象を紹介し,そこから食の意味について考えるという内容だ。最後のあたりできわめてわかりやすい例を引いているので,そこの部分を引用する。

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生命は,絶え間なく分解と合成を繰り返す,ダイナミズムの中にあります。鴨長明は『方丈記』に「ゆく河のながれは,絶えずして,しかももとの水にあらず」と書きましたが,まさに生命は川のような流れの中にあり,この流れを止めないために,私たちは食べ続けなければなりません。(p.60-61)
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 以前から気にはなっていたを少し調べてみることにした。シェーンハイマーが本当に「動的平衡」ということを述べていたのだろうか。また,さも著者がこの「埋もれていた真実」を発見したかのような記述の仕方をしているのだが,果たしてどうなんだろう。

 ネットの「海」を泳ぎ出すと,次から次へと私の問いへの回答がでてくる。

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 「生物と無生物のあいだ」においては、個々の記述は正しいものだとしても、実際の学問の姿が公平な態度で伝えられていない。福岡は、シェーンハイマーの埋もれた発見を自分が再評価した、というようなストーリーを作り上げるために、現実を歪めて描き出してしまっているのである。(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2_065a.html, 福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)より)
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 私は、福岡が「動的平衡」という言葉をシェーンハイマーが生み出したものとしては書いていたこと、シェーンハイマーに対して科学界から忘れ去られた「悲劇の天才」という劇化を行っていること、を指摘した。/ このことも思い合わせると、福岡が対象を描くときの公平さに疑いの目を向けざるを得ない。/ 率直に言って、私は福岡の誠実さを信じることができないのである。(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/vs_5_9a12.html, 福岡伸一 vs. ダーウィニズム(5)より)
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この本読んでて私が一番許せなかったことというのは、「動的平衡」とかの言葉をまるで新鮮な概念でもあるかのように言っておきながら、50年前の、量子力学完成直後に現れたデルブリュックやボーア、ウィーナー、そして理論生物学において非常に重要な仕事をした(そして52年の二重らせん発見直後、不自然死する)数学者であるチューリングとフォン・ノイマンのことを、一切どこにも書いていないということ。どこ探しても、チューリング・モデル、や、反応拡散系、自己増殖オートマトンの話、まったく無視されてる。(http://elangel.exblog.jp/9912630/, 「生物と無生物のあいだ」・酷評 2/2より)
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 基礎生物学というのだろうか理論生物学というべきなのだろうか。そこからは,すさまじい批判の矢が放たれている。少し長い,つぎのような記事もある。

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しかし、いくらかでも熱力学や化学の知識を持つものなら、福岡の「平衡」という言葉の使い方に疑問を持つだろう。
熱力学的な意味での「平衡」とは何か。それは、エントロピーが最大に達した状態、熱力学的な駆動力がゼロの状態である。これは、生物で言えば死んだ状態のことである。これでは、福岡の「動的平衡」とは合わないだろう。
 それでは、化学的な意味での「平衡」とは何か。化学では、化学平衡のことを動的平衡と呼ぶ場合がある。化学平衡とは、反応は起こり続けているが、進行する反応と逆向きの反応とがまったく同じ速度で起こっているため、系の化学的性質に変化が起こらない状態である。つまり常に動いていながら、どこにも変化していかないという状態である。(*1)これは一見福岡の「動的平衡」と同じものに思えるが、落ち着いて考えれば似て非なるものだと分かる。生体内における化学反応は、多くの場合一方向に進んでいるのであり、状態が変わらないように見えるのは、物質が外から流れ込んでくるからである。このような状態は、通常、「平衡」とは呼ばず、「定常状態」という。
(http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2_065a.html, 福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)より)
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 この匿名ブログの書き手によると「動的平衡」は「定常状態」という表現でかまわないようだ。

 さてここで思いっきり福岡氏に加担して彼のもっともいいたいことを私風にいうと,「生物は機械論的説明では説明しきれない。なぜなら,機械そのものが常に作り替えられているのだから。その作り替えるという作業は機械(分子)では説明されえない『神秘』の力,『神』の力というものを仮定せざるを得ない」となるが,少々強引,あるいは無茶苦茶だろうか?(氏は,無論,そこまでは記していない)。

 「食べ物があなた自身を造る」という部分についての反論,批判は発見できなかった。

 結局は,生気論者ということなのだろう。分子生物学という「仮面」に相当まどわされたが。。。

 最近おもしろい話しを耳にした。
 
 江戸時代以前,男児は12-16才で元服(成人式),女児は13-15才で嫁入りしたという(ウィキペディア等参照)。武家などではこのタイトなスケジュールにあわせる為に,学問,武術,習い事,しつけなどを急ぐ必要があった。商家,職人の世界では奉公が一般的であった。20才で成人を祝うという習慣はなかったようだ。(20才=成人という基準はどこからきたのだろうか?)

 なぜこれほどまで「大人」になることを急いだのだろうか。その答えは当時の平均寿命にあるという。江戸時代の2才児の平均寿命は40才ほどであった*。隠居は40才代後半から始まる。つまり現代とは10年以上も「退職」が早いのだ。一定の勤労者層を確保する為に「就労」も早める必要があるというのが答えである。

 私の父は役所を55才で定年退職した。その後役所も一般企業も60才退職が一般的となった。「隠居」(年金支給)が可能となる年齢も65才となり,それも徐々に年齢アップして行きつつある。60才退職後も職を求める人はいくらでもいる。

 就労年齢の終わりが高齢化すればするほど,就労開始年齢もあがっていく。それが「大人になれない若者たち」が増加している背景にあるのだ,という説。10代後半の若者の可処分所得が一番大きいという統計(のマジック?)などと照らし合わせると,肯けないこともない。「生涯」の時間はだらだらと伸び続けている(特に日本では)。それ故に,急いで「大人」にならなくてもいいよ,という仕組みができあがりつつあるのかもしれない。


 *「立川昭二の「江戸 病草紙」が文庫本(ちくま学芸文庫、1998)で出たので、その最後にある江戸時代の寿命の話を紹介する。速水融は信州諏訪地方の宗門改めの人別帳をもとに、2才児の平均余命を求めている。それによると、寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才、享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才である。」(百万遍ネット参照:
http://www.taishitsu.or.jp/aging/aging6.html)。40才の人の平均「余命」を現代と比較した研究もありそうだが,発見できていない。40才まで生きればその後は意外と長生きしていたような気もする。Webを見ていると「成人した者の平均死亡年齢は男61歳,女60歳だったという」(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080610/307226/)といった記述もある。私の家に残っている過去帳を見ても,江戸時代,80才まで生きたご先祖さまは結構いたことに驚かされる。もちろん隠居の身であるが。

学会情報

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中四国心理学会(2008, 11, 22-23)に参加。

本年は,広島文教女子大学にて開催。
広大の先生方および周辺大学の先生方とあれこれ情報交換。
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2009年度 香川大学(教育学部)
2010年度 鳥取大学(医学部)
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2009年は,5月に徳島大学で日本感情心理学会が開催されので四国での学会開催が続くことになる。
2010年の日本感情心理学会は広島大学(総合科学部)で開催予定なので,やはり中国地方での学会開催がつづく。

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