Maharaというのはニュージーランドで開発されたオープンソースのeポートフォリオシステム。Portfolioというのは、これまでの学修履歴を蓄積したものと考えてよい。うちの大学では来年度から英語関係の科目でこのMaharaを使った教育を行うことになっていて、その勉強会のメンバーとして試用を始めてみた。
学修履歴の蓄積が学生の動機づけを高めることにつながるのかどうかはいまいち分からないが、比較的長期的なプロジェクトを学生にさせるときには、備忘録としていいかもしれない。その場合には、Mahara内にあるブログ機能を使うのがよいのだろうか。学生が研究を進める場合、その研究に関連する論文をPDFで集めさせたり、ゼミなどで発表した資料を保存させておいたりするのに役立つかもしれない。指導する側から見ると、その学生のビューを見ると、その学生に対する指導の履歴を見ることができる、ということでもあるので。
なお、Maharaは、http://lp.roundtable.jp/で体験ができる。
先日、公立はこだて未来大学">で行われた MoodleMoot Japan 2010に参加してきた。moodleというのはPHPで動作するオープンソースの授業用E-Learningソフトウェアのこと。具体的には、ディスカッションフォーラムで学生同士が議論をしたり、レポートの提出を電子的にさせたり (もちろん、そのフィードバックも可能)、自動採点機能のついた小テストを受けさせたりすることができる。インターフェイスは洗練されていない部分もあり (翻訳がまずかったり)、慣れるまで分かりにくいところもある。まあ、そんなのはどんなシステムでも一緒だ。なお、会場となった公立はこだて未来大学は、全学的にMacが導入されているようで、冒頭の写真のような教室ばかり (なお、残念ながら全てJISキーボードだったので、デモやTwitterには自前のMacBookを利用)。特に情報センターが独立しているわけでもなく、ふつうの教室として、Macが並んだ部屋が其処此処にある。ゲスト用の無線LANも使えるし、あらゆる教室、休憩コーナーで電源が利用可能なのは、本当にうちの大学にも見習ってもらいたい。なお、この大学の教員研究室は、うちの大学の個人研究室にあるいやらしい覗き窓などなく、廊下側が全てガラス張り (ブラインドをおろすことはできるが)。ゼミ室などの学習スペースも以下のようなありさま。開けっぴろげだ。エッチな写真とか見ていたらすぐにばれてしまう。
進化と人間行動の期末試験の採点が完了した。簡単だったようで、X以外の平均点74.73点。
評価は以下の通り (最終版ではない)。
- AA 31名 (16.32%)
- A 38名 (20.00%)
- B 35名 (18.42%)
- C 45名 (23.68%)
- D 20名 (10.53%)
- X 21名 (11.05%)
「男性が女性の肉体的不倫を嫌がるのはなぜか?」はぜひできてほしかった問題 (これだけで評価してもいいくらいだ)。要するに、父性は不確実だから、というようなことを書いてあれば正解。執念深いとか、そういう心理的なことは関係ない。
iPad (starting at $499)
iWorks使用可能、ハードウェアキーボード接続可能、VGA出力可能。やっとふつうに使えるタブレット型のコンピューターが登場。2011年度カリキュラムの「必携パソコン」はこれでいいよね?
配布資料は全て電子形式で配布。学生は手元のiPadを見ながら授業を受ける。Minute paper/出席確認はiPadから送信。ノートも全てiPadで取らせて、ポートフォリオのサイトにアップロードさせておく。授業に対する意見 (いわゆる授業評価アンケートの類い) もiPadから送信させて、集計結果は即座に公開。学生の授業体験が大きく変わる。
シラバスとは何か ― 大学のシラバス主義には何が欠けていたのか 2009年02月02日 (芦田宏直)
大学のシラバスの優劣を判断することは簡単なこと。文字数が科目担当者によってバラバラな大学シラバスは、ほとんど儀礼的なシラバスにすぎない。各教員が勝手に書きまくっているだけである。
カリキュラムは、一つの教育目標に向かって、科目間の横連携+縦連携、つまり科目ヒエラルキーが厳密に組み立てられている場合にのみ存在する。
その場合には、シラバスは学生サービスでも、自己確認書でもなく、他の科目との接点を求めて科目のinput (受講前提) とoutput (学生仕上がり) とを明確に記したものになる。
廣岡秀一先生 (故人) のブログから。残念ながら先生が亡くなられた後も大学教員の意識はなかなか変わりません。
授業評価を阻む声
そんなに学生が信用できないのか? そんなに学生が信用できないほど、あなたたちには会話がないのか?
もちろん、学生の一部には信用するに値しない学生もいるかも知れない。しかし、その一部の学生を例に挙げて、自分の授業に対する多くの学生の意見を聞こうとしないその姿勢は、やはり、自己過剰防衛的姿勢としか言えないように思う。
多くの高等教育研究が示しているように、学生による授業評価は、その妥当性に関して満足できる水準にあるのだ。問題は、評価をするかしないかではなく、その評価を使って学生との会話を増やし、自分の授業をよりよいものにしていくためはどうしたらいいのかについて考えるチャンスを、如何に現実化していくかについて議論することなのだ。そういう意味では、学生による授業評価は、そのごく一部のデータにしか過ぎない。
多くの大学人に言いたい。大学教育や授業というものに対して、己の信念が大事であることは言うまでもないが、自己の授業を相対化して見る努力も必要ではないかと。さらに、時には高等教育研究誌でも読んでみるべきである。今の高等教育における問題が、決してお上からの押しつけで進められているわけはないことがわかるはずだ。
分析の続き。
出席率の高い学生ほど授業を高く評価するかどうか。さきほどのエントリー (授業評価アンケートの分析 (学生はテキトーか?)) では、学生の主観的な出席率を分析した。まず、この主観的な出席率がどの程度正確なものか、検討してみよう。
2009年度前期の社会心理学の授業アンケートデータを軽く分析してみた。履修者数は102人、回答者数は77人で回答率75.5%。うち、4名は期末試験の得点との対応がとれなかったので、除外 (記名式なので、期末試験の得点と対応を取ることができる)。従って、分析対象データはN=73。

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